昭和41年08月28日 朝の御理解



 (途中末尾切れ)
 お広間前で一番神聖視されているところの、御結界が今朝から、猫がばたばしておるかなんかでしょうかね。私のいつも座らして貰う座の真中に汚しておる、誰の不注意、誰にわびさせなければならんということはない。私が詫びるより外にない。どうした不注意なことかと、誰に言う所もない。私の不注意、一番信心の不行き届きであり、信心の不注意である。そんなら誰に詫させると言うて、誰に詫させる訳にいかんと言うのじゃなくて、誰に詫させることはないのである。
 唯 私が詫たらよいのである、というて、神様大事なところを汚しまして相済みません、とお詫したら、それでよいのかと、言うとそれでお詫びが済む筈はない。結局改まって詫びるより以外はない。神様が一番喜んで下さる、神様に喜んで頂けれる信心させてもらおうと、ま、お互い思いますと、そこに精進さして貰うのでございますが、何が一番、神様が喜んで下さるかというと、私共が真実ほんとうのおかげを頂く時、神様が一番喜んで下さる、真心からのお供え。
 一生懸命の神様へ対する信就だて、確かにそれも神様は喜んで下さるに違いない。ですけれども、一番喜んで下さるのは、なんと言うても、私共が本当におかげをうけられること。私共が本当におかげをうけて、神様へお供えするも、御用をさして頂くも奉仕させて頂くも、それがもうなんでもないこととして、いや当たり前のこととして、それがなされると言う様なおかげをうけた時に、神様が喜んで下さる。
 どうぞどうぞと、こうお願いをして、おかげを頂くおかげというのではない。私がね、神様がもう真実、もう本当のおかげ、その本当のおかげを頂くために、私共が日々のあらたまりが第一と仰る。その第一のあらたまるということに、取り組まさせて貰う。ですから言い替えますとその神様は、改まると言う事が、一番喜んで下さる事になる、もうあらたまれば、本当のおかげが頂ける筈なのだから、ほんとのおかげを頂けたら、ほんとのことが出来る様になって来るのだから。
 神様は私共に一番求め給うのは、やはり私共が改まると言う事、人間本来のほんとの人間らしい。万物の霊長といわれる、その万物の霊長なら霊長らしい、私共にならせて頂くということに、一生懸命ならせて頂くこと。そこに焦点をおくこと、そんなら真の人になる、真の人間になる、人間万物の霊長といわれる、その万物の霊長らしい人間になるということは、どう言う様に事かと。
 いかに信心が分かったからというて、おかげ頂くもんでもなからなければ、いかに信心が分かったからというて、神様が喜んで下さるものではない。分かったことが分かったように行じられる、分かったことが分かったように、人間らしゅうなって行くと言う事がです、神様のお喜びなんです。だから神様の一番お喜びになれることがです。例えばお粗末、ご無礼例えば只今御結界を汚し、けがしたということによって、私がそこに気付かしてもらい、誰か詫なければならんと、いうのじゃない。
 私が詫びる以外にはない、唯詫びるというても、唯 相済みませんというだけではない、私が改まって詫びるということになれば、神様も喜び又そうしたお粗末、御無礼がもとで、神様に喜んで頂けれる私に、信心にならせて頂くということになる。もうお道の信心さして頂いて、おかげを頂きたいと、もう本当におかげを頂きたい、こういう願いをもってお互いが修行さしてもらうのであり、お参りさしてもらうのである。
 ですから、その勿論、そのおかげというのは、どうぞあぁなりますように、こうして下さいという願いをたてて、その願いが成就するということは、唯その神様のお働きというものを分からして、頂くための 一つの信心の過程である。そしてそのことだけが信心ではなく、いやそれは信心の歯いり口の事であって、神様も喜んで下さりゃ、私共も喜べれるおかげ、それには先ず私共が改まった私共にならせてもらう。この位なことはと言う様な容赦はない。それは勿論信心にも、それぞれの段階というのはございますから、だからこちらが分からして、信心が分からして頂いただけ信心。
 私共の人間も分かっていかれる。私共人間も変わっていかなければならん。分かっただけで、人間が変わらないなら、これはそれを堂々回り信心だとこういう。おかげも堂々まわりだとこう。私はあの今日を期して、本気であらたまらして頂くことを一つ、ここに座ったとたんに感じさして頂いた。お詫びの印にこの事を、改まらして頂こうというものを、私は感じた。そのことがいうならば、一番私共が有り難いと思うたり、大切にさして頂いておる神様へ対するところの、しんじゅだてなのである。
 私ゃ貴方をこんなに好いとりますと、口で言うたたげじゃ分らん、あぁたんためなら、五本の指ぐらい、切ってしもうたっちゃよか。それで言うだけじゃいけん、もうあなたのためならば、財産も要らん身内も要らん。言うだけじゃなにもならん、あぁたのためならば、もうこれは私から取り除かれないようなもんだけれど、そんなにもん尚難しいものなんだけれども、あなたのためならば、これを戸ってご覧に入れましょう。戸ってご覧に入れましょうというと大変ちょっと、言葉がおかしいですけれども。
 これを取らせて頂きます。改まらして頂きます。それによって私のお詫びの真を捧げたことになる。そしてその先に私共が体験すること、それは成程神様は、私共が本当の真の人間になるということを、一番喜んで下さるんだなぁ、その印に今まで思うわなかった、こういう、おかげが展開してきたと、こういうおかげを頂けるようになったという、実証、裏づけをして下さるようにおかげを下さる。
 お互いがどうぞ、どうぞと自分が改まる事も、なんも神様に対するしんじゅだてもようせずしておいて、そしておかげを下されと言うだけで、おかげを受けたんでは、それは唯一方的なおかげでしょう。皆さんがおかげ頂いたといって喜ぶたけでしょう。神様はそんなおかげにゃ喜びなさらん、私共が本当のおかげを頂くために、私共がいよいよ事に当り、いよいよ何かに直面した時にです。日頃は出来ません、いよいよこう私共の場合にね、人間生身でございますから、中々出来ません。
 改まらにゃ改まらにゃと思とっても、出来ません。けれども例えば今日のような、お気付けならお気付けを私が頂く時にです、ほんとにそれでガクンとこう、例えば来ると申しましょうか、ね。今日を境にと、と言った様な一つのそれを頂かしてもろうて、改まらして頂く、そして改まって詫びるという信心、そこから生まれて来るもの、それが私は本当の信心であり、本当のおかげであると私は思う。
 皆さんおかげに、本当とか嘘とかいうものがある筈はないのですけれども、ま、言い替えますとです。ただ私共だけ私方だけ頂いたおかげ、そりゃ病人が病気を治して貰うた、金の足らん人が金のお繰り合わせを頂けた。と言う様な時はあなただけの喜びでしょうが、それが神様の喜びに繋がっとらなければならん。なら神様の一番喜んで下さるのは、私共が立派な人間になると言う事。少しでも真の人間になると言う事。その事を喜んで下さる。その喜んで下さるのが、おかげの上に陰の様に現れて来る。
 私共も喜べれりゃ神様も喜んで下さると言う事。然も勿論ここんところは限りが無い事でございましょう。私共がここまでは、ここは改まらなければと、段々信心の光が自分の心にさして来る様になりますとです、今まで見えなかったところが、見えて来る様になる。信心のおかげを頂くようになると、聞いただけじゃ分からん、成程と思うただけじゃ分からん、ほんなもんじゃない、やっぱり自分自身で突き止めなければ、これではおかげ受けられない筈だと言った様なものを、自分の心の中に突き止めなければ、ためには心が暗くてはそれが分らん。
 例えば、真暗い部屋んなかではどこが汚れておるやら、どこが散かっておるやら分からん、そうでしょうが。ところが自分の心の中に、信心の十燭光が灯った、そこに十燭光だけの範囲が、そこにぼんやり明るくなる。はぁここがこんなに散かっておった。もうそこ十燭光で光だされるところの、そこだけは分かった。も、これで綺麗になったごと思とった、ところが信心が段々分からしてもろうて、二十燭光になった、ところがそんならば、二十燭光の明るさというものが、私の心の中に光がこう放つようになった。
 はぁこげんところがこげん汚れとったと 言う様なものですから、それが百燭光の電気になりゃ、尚更のことなら百畳敷を照らすようになって来るです。私の心に中というものがです、こんな隅々こんなところに、こういう汚いものが、こういう汚れたものがあったんだ、ということが段々分かって来るのですから、これはその人の信心の過程なのですから、だから初心の人でも、十年、二十年信心を続けた人でも、その理屈は同じだということになる訳でしょうが。
 ですから私共が限りなく、その大きな光を心の中に頂かしてもろうて、そこに光だされるところの、汚いものをです、発見してそれを奇麗にしていく。そのことを神様が喜んで下さるのです。その神様の喜びがです、私共の上にその喜びが蔭の形のようにです、形になって現れて来るおかげを、私は本当のおかげだとこう思う。自分の心はいつも真暗、どんなに御願い致します、御願い致します。成程一心を立てればおかげになる。
 奇跡も起る、けれどもその奇跡と思わけるような、おかげを頂いても、暫くしておったら、それは大した有り難い事ではなくなって、段々喉元過ぎれば、暑さ忘れて信心まで、薄うなっていくでしょうが、そういうおかげでは、ほんに何年前にゃ、あげなおかげ頂いたと思います、ぐらいにしか、ならんでしょうが。けれどもその都度都度に、人間が変わっていく、その都度に改まっていく、磨いていく。
 いよいよ限りなく美しゅうならせて頂く。その範囲というものが広まっていくと、そういうところに、信心の喜びもありゃ楽しみもある。そこを分らして頂いて、神様にも喜んで頂けれ、私共も喜べれるおかげ。いわゆる、信心共栄に、神と人とが一緒に栄え合うていくところの世界というものが顕現されてくる訳なんですね、そういう世界を私共がつくり出していく。そこに信心の値打ちというものがある。ただ私共お願いしておかげを頂くということ。
 それは例えていうならば、お取り次ぎを頂いて、お願いをすると言う事は確かにおかげ受けるんですよ、自分でどうにも頑張ったけど、どうにもでけじゃった、ここに一本のビールがある、このビールを飲もうと思うけれども中々難しい栓が抜けん、ちょつと栓抜き貸して頂く様なもんじゃ。手に例えば油で汚れた、幾ら洗ったっちゃとれん、幾ら洗うても取れんから、一つお取り次ぎを頂いてお願いをしょうと言う事になる。
 そしたら神様は、石鹸を貸して下さるようなもんじゃ、今まで落ちなかってものが、すとっと落ちる様になる。そういうおかげが頂けれると、いうことだけにです。もし私共がきゅうきゅうとしておったら、それは矢張り信心はなんというですかね。信心はやはり低級されたご利益、ご利益というてご利益を追求するだけの信心であったら、それはその信心を低級視されても仕方がない。
 そりゃもうご利益がある、おかげがあるというだけで、もし椛目に集まって来る人達があるならば、椛目がとやこう非難されても仕方がない、成程そういうおかげを頂くということと同時に、椛目に縁を頂いたがさいごです。人間変っていく、そしてその変わっていくその度合いに、応じておかげがたのまんでも、願わんでも頂けていく。いくら本当のことだ、これがほんとの信心だと言うても、ご利益おかげが伴わないような信心であったら、もう そりゃ死んだ信心だ。だからその死んだ信心では詰らん。
 やはり生きとらなければ、こちらの信心がほんとに成長すれば、成長しただけ、おかげも成長する。この伴うたものが必ず、ついておらなければ、本当の信心とは言えない。その本当の信心を目指さしてもらうのである。ために、私共が本当の人間にならして頂くことを、願はなきゃいけん。本当の人間になる、話しを聞いて、「はぁそげな風になることが本当の人間だと」本当の氏子としての、それが値打ちと分かっただけじゃいかん、そこに、あらたまらにゃと、いうことになる。
 中々簡単にあらたまられぬ、改まりもあるけれども、これを私のガンのように、こびりついて、おるようなものがある。それは何かに直面した時、何かにガクンとこう頭をたたかれたような思いをした時に、すみませんと言うだけではなくて、もうこれを境にこれをあらたまります。というならば改まって詫びるでないと、いつまで経っても、いつまで経ってもおかげが垢抜けになりません、そん時そん時のおかげを頂いていくだけではです、 大した事はありません。
 神様が私共がそれこそ思いもしなかった、夢にも思はなかったような、おかげになっていくためにはです、どうでも、私共が神様の一番喜んで下さるもの。それは私共が真の人間を目指すこと、ためには先ず、
  (途中末尾切れ)